磯の童子
むかしむかしの話です。 あまりお魚を釣った話は出て来ないと思います。印象深いお話を暇な時に・・・。
クヌギ林の小道を抜けると、山肌がむき出しになった斜面を横切る道となっている。 その道を数人の小学生が、奇声を発しながら走り抜けようとしていた。
僕は前から2番目を走っている。その斜面の中程に掛かった時、後ろから誰かの悲鳴が聞こえた。 「ぅきゃ・・・」、ざざざぁ。 振り向くと僕のすぐ後ろを走っていた筈の友人は、少し下の斜面から伸びた小枝に必死の形相で つかまっていた。彼は「お・ち・る・・・」と、やっとの思いで声を出した。
さて、上に引っ張り上げるには遠すぎて届かない、しかし、下は足元から傾斜が次第に緩くなっている。 「おい、手を離して滑っておりれ、あんまり高こぉないど。」 「ん・・・・・?」枝をつかんでいっぱいに手が伸びきった姿勢のまま、 しばらく下を見ようと右に左に頭を動かしていたが、見えたのか、見えなかったのか、 手を離したのか、離れてしまったのか、とにかくズルルと滑り落ち、何事もなく立ち上がり笑った。
彼は落ちる人だった。もっと小さい頃、家の前の溝に何度も落ちていた。
その後も色々な所で落ちた。
■僕らは社会人になっていた。 その日、僕の会社は休みで山陰の某波止でサンバソウ(石鯛の幼魚)を釣りに出かけていた。 例の友人は半ドンの仕事を終えて、通勤着のまま駆けつけた。 内向きで釣っていた僕の釣果を聞くと、スラックスにワイシャツ、革靴という軽装のまま、 渓流竿を持って波止のテトラポッドを越え向こう側に消えていった。
1分もしない内に彼は戻ってきた。僕から少し離れた所で、口の端を少しだけ上げた不気味な表情でスッっと立っている。 何故か汗をびっしょりと掻いていた。
「竿が折れた・・・。」とその表情のまま呟いた。
手に握られた竿に目をやると、手元からポタポタと水滴が滴り落ちている。 そのまま足元に目を移すと白く乾いたコンクリートが革靴の回りだけ灰色に変色し、 ジワジワとその面積を広げていた。
「おま、落ちたんか?」 「革靴はよう滑るわ、・・・・・、帰るけ。」 「あ、まて、俺も帰るわ。」と道具を片付けた。
人に落ちた事を気付かれぬよう、何も無かったように歩くが、・・・・・べちゃ、べちゃ、べちゃ。
■日本海側のある波止に来ていた。 何を釣りに来ていたかは忘れてしまったが、その時、闇夜の波止にいた。
「おい、テトラの上で寝ようぜ。」 波の静かな日で、飛沫を浴びる事も無い、 テトラポッドは大きく、4本の足は2mもある。快適なベッドになるに違いないと思った。
二人はそれぞれシュラフを持って、按配の良い場所を探していた。僕は忘れ物を思い出し、 車に戻ろうと体の向きを変えた。
その時、悲鳴ともつかない小さな声を聞いた。「ぅ・・・」
あれ?っと振り返ると、何かがフワリと飛んでテトラポッドの間に音も無く着地した。 一瞬、猫がジャンプしたと思ったが、その場に彼が居ない事から、飛んだのは彼の持っていたシュラフで、 彼が落下する時に放り投げた物だと悟り、蒼ざめた。
呻き声や助けを求める声は聞こえないか、少し耳を傾けて気配を覗った。 しかし、忽然と姿を消してしまったかの様に、何の気配も感じない。 気絶しているのだろうか?
僕はその方向に向かって恐る恐る声を掛けた。 「ぉー」。・・・・・。 「おー」。・・・・・。 「おーい」。三度、呼んだが、何の返事も無い。
彼の居た付近に向かって歩き始めた時、「ぉー」、と小さな声がかすかに聞こえた。 「大丈夫かぁ」。 「おぅ、どうもない。」
声に近付き、テトラの隙間を覗くと、巧い具合に2m下の水平に伸びたテトラの足の上に立っていた。 その足の両側は、真っ暗で底が見えない程深い隙間だった。まったく強運な男である。どこにも怪我は無かった。
なぜ返事をしなかったのか聞くと、しばらく放心状態で、自分の身に起こった事を理解するのに 時間が掛かったらしい。我に返って、やっと声を上げたと言う。 僕のほうが怖かったよ。
■その波止は友人と見つけた穴場的メバル釣り場だった。 古い石積の波止の内側に向き、渓流竿に1号ラインの通し、ハリにはタエビをチョン掛けして中層に漂わせる。 すると、石の隙間から出て来た黒い大メバルがタエビを咥え、素早く元の穴に戻ろうとする。 ご存知だろう、逃げ込む場所に向かって、一直線に走る時のお魚のパワーは凄い。
小さなふわっとした前アタリの後、ひったくる様に足元に突っ込んで行く。 アワセが遅れると確実に石に擦れて、ラインブレイクしてしまうので、気の抜けない釣りに興奮した。
当時の角島には、まだ、橋は架かっていなかった。 ここで釣れるのは夜釣りに限られていたので、夕方の連絡船で行って、朝の便で帰るのである。
メバルシーズンに入った、ある日の事、友人と都合が合うまで待ち切れず、ひとり、この波止に来ていた。 いつもの様に常夜灯の下に座り込み、仕掛けを落とすが、その日はなぜか食いが悪かった。 L字形の波止のコーナー手前に陣取っていたが、辛抱出来ず、コーナー側に少しずつ移動しながら釣っていた。
常夜灯から離れると、少し竿先を押さえる様な前アタリが見難くなったので、 少しでも見やすい角度となる、傾斜部分の出っ張りを足場にしていた。 何投かしては、少し移動して行く、そして90°に曲がったコーナーを曲がろうと足を出したその時。
ツルン!!!
一瞬の出来事だった。よく交通事故の時、スローモーションに見えると言う話を聞くが、 これは全く違っていた。滑ったと思った、次の瞬間には海中の風景が見えていた。 それを見てはじめて落ちた事に気付き、次に何をするか考える。その間も海中の幻想的な風景を眺めていた。
大小の気泡が足元に向かって上って行く。ああ、俺は逆立ちになっているのか。 常夜灯の灯かりが滲んで揺れている。水の中は、あまり冷たくないな。 白く点々と漂っているのは、ゴミだろうか?プランクトンだろうか?
防寒着に溜まった空気の浮力で海面に顔を出した。巧い具合に足は海中の石の上に乗っている。 ぐいと体を起すと、冷たい水が首元から伝ってきた。ゆっくりと足を踏みしめながら波止の上まで登ると、 今、自分の置かれている状況を考えた。
朝までの数時間をここで過ごすしかない事。 火を熾す、すべは無い事。 下着まで濡れたのは首から腹までの前側の一部だった事。
大きな石を荒く積んだ波止だった。石と石の間の大きな窪みに丸くなりスッポリ収まって、目を閉じた。 ああ、こんな感じだったのか、僕も『落ちる人』の仲間入りだな。 終わり
Copyright (C) 2005 by "Kouten douji" All Rights Reserved
むかしむかしの話です。
あまりお魚を釣った話は出て来ないと思います。印象深いお話を暇な時に・・・。